捨ての一口

今朝、3個パックの卵豆腐を食べ終わった。卵豆腐は食べるときは、まず素の味のまま一口分削り、その後にタレをかけて味わう。この捨ての一口目について、他にも似たような事例がありそうだなと考えながら数日に渡って食べたけどピンとくる例えが浮かばないまま食べ終えてしまった。悔しい。カリオストロの城で伯爵がゆで卵の頭を捨てたり、となりのトトロできゅうりの頭をかじって捨てるシーンがあるけどしっくりこない。ニュアンスが違う。卵豆腐の一口目は、本領発揮してこそいないけど一口目として体内に入っているし、必要な捨て、捨てというかトスのような。

国保の支払いを口座引き落としにするため銀行へ。こんな些細な用足しですら、自分のこと褒めたくなるから、ご自愛の精神が強いのかもしれない。いや、銀行とか役所とかが嫌いすぎるのだ。銀行でおばあさんが「今日お持ちになられている通帳以外にも、通帳があると思うので探してみてください」と言われており勝手に肝冷やす。わたしだったら、自分が認識できていない通帳が存在していること、家の中にあるのだとしても探すのは途方もないことのように思える。どうかすんなり見つかりますように。

銀行を出て愛しのロイヤルホストへ。夏休みの家族連れも複数グループおり、やや賑やかな店内。大人と子どもを2グループに分けて座っているのを見て、そういうのあったな~と懐かしい気持ちに。ランチの鶏肉の鉄板焼き、きのこのソースをかけたものを食べる。うまいです。

孤独の正体を突き止めたい。勉強に没頭しているときは孤独を感じないし、内面について考えなくていいから楽だな。生産性があるないで良し悪しを語ることはできないと思っているけど、この時間は良いものだと確証持てるような時間を増やしていけばいいのかもしれない。それはとても難しい…。

OCHA NORMAのシェケナーレのサビ初めて聴いたときからなんかのフレーズと似てるなと思っていたけど、嵐のハダシの未来を思い浮かべていたことが分かりすっきり。